1945年夏

当時大東亜戦争と云っていた戦争が、
  ソ連軍の不可侵条約一方的破棄で、参戦して日本人が大混乱に陥りました。
本稿は、著者が記憶を辿りながら整理した内容である。

父は、
1935年頃家庭を構え、当時の日本趨勢であった朝鮮や満州等への、大陸飛躍を考えて九州の福岡から、先ず朝鮮の平壌近くの海州で鉄道局に職に就き、
朝鮮東北部を海州〜沙里院〜古茂山と北上し、終戦の頃は咸鏡北道の茂山鉄山の近くの珍貨(茂山線の機関区が有った駅)の鉄道官舎に家族と住んでいた。
当時、著者は国民学校の4年生だった。

このHPは、北朝鮮の最北端付近から日本本土へ近づくべく、
「内地への脱出行」について多くの努力と犠牲を強いられた事について、
多くの在留日本人が内地では味わえなかった経験の一端を、
               少ない記憶を辿りつつ記述したものである。

学校や家では

官舎から学校までは10キロほどあったので、入学当初から汽車通学だった。
住所が、満鮮国境に近いため、折に触れ(匪賊)と言われた「金日成」の話が持ち出され一人歩きを厳しく制限されていたし、
学校には配属将校が常駐し、校長先生を始め学校職員を監督していた。

父たちは毎日のように在郷軍人軍事訓練があり、婦人会も幼児が居ようと居まいと広場に集合させられ、鉄道の機関区鉄工所で急造した模造銃剣などで
軍事練習が毎日のように行われていた。
我家には一歳前の双子が居た、四畳半の部屋に入れられ母親が帰ってくるまで、オムツの汚物にまみれて遊んでいた。
学校から帰ってくる兄姉を喜んで迎えたものである。
この双子は秋頃に腸炎に罹り二人とも一週間足らずに亡くなってしまった、
当時の事ゆえ医者も無く薬も無く戦時の犠牲者でもあった。

S19年の秋になると国民学校の4年生以上は、男児=男子という扱いになり、
私も急ごしらえの模造短刀をあてがわれ婦人会の一員に組み混まれ、
毎朝足にゲートルを巻いて外出せねばならないようになり、とにかく何時もと違うと感じていた。

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